偶然とは血が通うところ

朝、久しぶりにサンキャッチャーに光が通り、
虹の玉が部屋のあちこちに広がった。
その「ひと玉」が、
壁に貼っていた大事にしている文面の、
「ペットボトル」の文字を照らした。
これは、私の、血が通う所。
直ぐに目に留まり、
直ぐに写真に撮った。
こういう事が起きたら、
私は、「正しい時間を生きている」と思う。
その証拠に、光の玉が、
血の通う所に降りて来た。
例えば、昔、「私は作家だから、書かなくちゃ死んじゃう」と両親を脅していた時がある。
作家になりたい。それが、いつになっても、自分を作家とは名乗れず、人に名乗れば不自然で、自分だけにそう呼ぼうと思っても、ありもしない現実のありもしない勝手な自信の中にしか存在しないその事を、人になんと言われようとも、自分の中だけでは、「どこからか来る自信」を、どけようにもどけられない心理状態で毎日暮らしていたりしたときがある。
ある時、本屋で文芸雑誌を見たら、
「〇〇新人賞小説原稿募集」の記事を見つけたりする。
こういう偶然は、「私は間違っていない、ここは小説家の血が通っている」と、偶然を過剰に大事にして驚いたり、記念日の出来事のように例えたりしたものだ。
そうして、誰も自分を小説家だと肯定してくれない世界で、「小説家の血の通う場所に私は生きている」と、胸を撫でおろすのである。
私の勝手な自信だけれども、このような事でも、どなたかの力になるなら、私のように「血が通っている」と、どこから来たのかわからない、ありもしない自信で自分を肯定してあげたらいいと思う。
この「ペットボトル」の虹の玉は、
少し出版に時間が掛かっているが、
昨日は、編集が前進していると感じられた日だった。
「私は私の人生の血が通っている正しい時間を生きている」
このように、書きましたが、
皆さんに偶然が起きたら、私の考察は、何かの足しにしてください。
これは私が何度も経験したものですが、
「共時性」といわれるものだと思います。
