作品を書き始めました。

大大財産(作品)を失って、私は何を書き出すのだろうと思っていたら、
「絵本」でした。
「小説じゃないんだ」とおもいました。

これを書きたいという物が、頭の中に浮かんで来ました。
じっくりと、楽しく、いとおしくなりながら書きました。

あらかたストーリーが書けたところで、
「絵」を書かなければと思い立ちました。


100均に行って、絵具とパレットと筆と画用紙と、色鉛筆を買いました。

行く前に、天袋にあった、
スケッチブックを取り出して、
まだ真っ白なページがあると思い、
嬉しかったです。
これは、ちょっと高いスケッチブックでした。

以前、油彩を習っていました。
先生は89歳です。
「為せば成る」と言う言葉をいつも胸に持って、
もう一花咲かせたいと言っていました。
「角尾蕗子(つのおふきこ)」先生は、洋画家です。
若いころは、モダンスタイルで、
だんだんと、人形浄瑠璃をモチーフにした、
文楽人形を盛んに描いていました。
自由に描いていいのですが、
先生が、ときどき、「こう」「こう」と、筆をつかむ私の手をにぎったり、キャンパスに親指の爪で、「こう」「こう」と、跡を付けてくれました。

先生の言う事は、全て「そうだな」と的を得ているのです。
「40人も女性の合唱の顔」を描いたときは、最終的に5人になった事があります。

那須の門下生は、比較的若い人が多く10人いました。
東京の門下生は、数がわからない程います。
先生は、最終的に那須に「プライベート美術館」を作り、
色々な所で、3回の門下生展をやりました。
皆が描いていたものは、小さくて6号、それがだんだんと先生のように、100号を描くようになりました。
一枚描いては額装するので、お金が大変だったです。
中には、額が無い方が良いといわれる作品がありましたが、それは、とても個性的な17歳の女の子の絵ばかりでした。

下の私と先生の写真では、私が絵の具を指で塗っている所です。なんでもありなんです。
又、私が着ているのは、絵用の服で、絵具だらけでしたが、
いつもそれを羽織って描いていました。絵の具のこびり付きが激しいのです。



今日、小さな倉庫から引っ張り出してみた、絵具セットです。
懐かしいなあ、と、目がうるみました。
先生は102歳まで長生きしました。
最後の最後まで、「アトリエに行って筆を持ちたい」と言いながら、最期は病院のベッドで暮らしました。



この面白い絵の具の塊りは、
皆がペンチングナイフを布で拭き取る時に、
「ちょうだい」と貰っていたものです。
カチカチですが、面白くて大切な、宝物のようてです。

実際に、私は、大きい描きやすい絵ばかり描いてきたので、
絵本の絵はなかなか描けないだろうと思うのですが、
今は「描こう」という気持ちになっています。


どれほどのものが描けるかわからないけれども、
自分の文章に絵をつけてやりたいと思うようになりました。
「えほんのがっこう」に行かなければ、そのような未来的な思考にはならなかったと思います。



「えほんのがっこう」ラフも上手く書けない人が、
なんとも、腹をくくったものだと思います。

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