亡き父の誕生日

父が生きていたらどんなに喜ぶことかと思う。母と父が老年仲良く暮らした居間を思い出す。
母はテレビばかりを見ていた。父は着なくなった服で小物作りやバック作りなどをしていた。

「歳を老ったらおばあちゃん(私の祖母)にそっくりになって裁縫ばっかりしている」と母が言っていた。

父は私が載った新聞は全部スクラップしていた。私が色んな所で働いては渡した名刺や印鑑証明のカードは、いつの間にかホック付きのカードケースを作って入れて置いてくれた。印鑑証明を使う段になるといつも「俺は用意がいいねえ、お前はだらしがないから」と嬉しそうに出して来る。私は父の為に、印鑑証明を取り返さず父が管理するというものはそのまま持って居て貰った。




「お前はいいねえ、結婚して離婚して、子供を産んで、色んな仕事に行って、夜遅くまで働いて帰って来ないで、好きな小説を書いて」などといつも言った。
私が離婚をした頃は、離婚をする女性が殆どいなかったので、父は「女流作家は離婚くらい経験しなくちゃなれないよ」などと家に来る皆に言っていた。私がこれと言った働き口が無かったので、周囲の人は私を話のネタにしていたと思う。

「芸は身を亡ぼす」と言った人がいたが、父は、
「この人(私の事)のやっている事はね、年収にしたら3000万4000万はくだらないから」などとその人に言い渡す、
「この親にしてこの子あり」と言われると、
「この人は親戚一の発展家だから」と笑う。

父はいつもぐにゃぐにゃしていて、人がよこすどんなストレートパンチも入らない人だった。




お父さんあのね、小さい声でいうけれども、良い事があったんです。
今は心の中でしか言えないけど、それはそれは、私にしたら、万々歳するような事なんです。

懐かしいあの家からここに越して来て7年になります。
やっと、日が射したのです。

生きていたら、11月25日の自分の誕生日の酒の肴にしたと思います。朝まで飲んでいたかもしれません。私の生まれた家は酒屋なんですから。お酒は山ほどありました。父はなんでもござれ。私はマイヤーズラムが大好きでした。

左側の畳に敷いてあるラグは酒屋の叔母が持って来てくれました。




家の天井に虹が走る。




親友ペクがコストコの巨大マフィンを持って来てくれた。直径は10センチ以上あると思う。

マフィンとゆで卵を仏壇に供えました。父の一番の仲良しのブロイラーのおじさんが、ゆで卵が大好きで、家に飲みに来る度に私が沢山ゆでてあげていたのです。
空の上で誕生日に来てくれているだろうし、「ゆで卵がいいよ」と父が言うような気がしました。父の友達でいてくれたおじさんは、何があっても無くてもいつでも来てくれてありがたい人だったと思っています。




台所の布巾とミニ手拭きと洗面所のフェィスタオルを漂白しました。私の家のタオルは殆ど白ばかり。
バッグに入っているハンカチも白ばかり。

母が、白いハンカチにアイロンをかけてくれた姿が忘れられないのです。Tシャツにまでアイロンをかけてしまう母なのです。母はアイロン魔。




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