人は、自動で否定的になる生き物だと思います、つくづくです。
朝、目覚めたら、ベッドから首を上げてカーテンを見ます。「今日は晴れかな曇りかな」と一番最初に天気を見たいからです。「晴れだといいな」と毎日思います。暖かいし、洗濯が楽しくなるからです。
今日は晴れです。カーテンの向こう側のサンキャッチャーは、私がカーテンを開けたら、沢山の光の粒になって一斉に飛んで来ようとしています。
これを見て、今日はとても良いはじまりのだなと思いました。
暖かいと部屋が暖かくなり動き易くなり心も温まります。冬の曇りの寒い日は身体も硬くなり動きが縮こまり机に座れば手もかじかんで心もかじかんで小さくなる気がします。
小さくなるのが嫌いというわけではないです。縮こまってしまい小さいなら小さいなりにあっちからもこっちからも可愛がってあげようと思います。
晴れでも、自分の世界が何もかもが縮んで豆粒位になってしまい、自分がとてもみじめに思う日もあります。
自分には何もないんだ、周りの皆にはいろいろな事が起きていて活発で活き活きしているのに、どうして私は一歩も前に進めないんだろう――とです。
一カ月前からつい最近まで自暴自棄になっていました。
いいことが何もみつからない。他の人のいい事ばかりが目に入り、私はどんどんと社会に取り残されて行く。
それでも、自分が出来る事をただこつこつとやるしかないのです。気がつくとまたそれをやるしかないし、やっている私がいました。スピードがのろくても一日に何度も止まっても、こつこつとやるしかないんじゃないか――と、客観的に自分を見たのです。
「こつこつとやる事がある」こんなに素晴らしい事はないんじゃないか。その事に先ごろ気づいたのです。
それを何かと比較するのはやめようと、はっきりと思い立ったのです。何かから抜け出したと思いました。
私がやっている事は私にとって、この世界の何物ともあいまみえない、私の中に起きてはいるけれど、非凡な事なのだと思えました。
非凡な事、それだけでいいじゃないか。それがみつかっていたら、人生の最後までそれを一生懸命温めて生きて行けるのではないか。
私は、自分をどんな自分であろうとも、『これでいい』と、こんなにも肯定して思えるようになったのです。
これは、生まれて来て初めて体感した『自己肯定感』です。言葉では知っていたものです。何度もお稽古してきた事です。
「比較しない」「こつこつやる」「楽しい事を一日の時間の中に押しはさむ」「一日一回思いきりリラックスする」
人は、「自動的に否定的」であると思います。ずっとそう思って生きて来ました。肯定的な事を思わなければ、しなければ、自動で否定的な事の中に進んでいくように思います。
例えば水の一口でも自らすすんで飲まなければ、「生きよう」としなければ、生きて行けないのではないかと思います。
夕焼けの時間です。野っ原も夕焼けが降り注いでいます。
一日ありがとう、と思えました。ありがとうと思うのは、とても良い事で嬉しい事だなと思いました。
そう思えない日もあるかもしれません。
そういう日があっても無理しません。自分に正直にしていたいし、自分を大切にしたいと思います。
私がリラックスする好きな事は、お風呂上りに飲む、冷たいコーヒーです。これがあると、ほっと出来るんです。