叔母が 天国へ 行きました

霧がけむる朝でした。
朝方の5時頃からけむっていました。
景色がほとんど見えません。

朝方ではなく、真夜中から霧だった、そうです。

珍しいので写真を撮りました。





霧が明けて、いつもの景色が目の前にありました。

酒屋の叔母から電話が来ました。父の弟の奥さんが亡くなったとの報せです。4年間、施設に入っていました。私の母より長い事、施設に居たのです。最後は、旦那様だけは覚えていても、娘息子の事がわからなかったと聞きました。

私の母は、殆どの人を、特に昔から会っている人たちの事はしっかりと覚えていました。痛いという感触は失われていたのか、身体が辛いという事も一言も言いませんでした。
胸水を取る時に痛かったけれども、我慢していたのかも知れません。私は、母がいきなり胸水を抜き過ぎたと思っているのです。お医者さんがもっとゆっくり抜いてくれたらよかったのにと思っています。

叔母は、眠るように亡くなったと聞きます。

母は、夜中に私が一旦病院を離れる時に、私の人差し指をぎゅうっと握って目を見開いて私を見つめました。「さようならの時間が来た」のを母は知っていたと思います。翌朝、私と生きて会えない事も知っていたのかも知れません。あれは、最後のお別れをしたのだと思います。

亡くなってから、母を不憫に思う事がいっぱいあります。後悔は尽きないです。





この頃、死がいつでも今ここにあるんだという事を感じます。それは私にはとても怖い事なのですが、見逃す事は出来ない大切な事かもしれないです。

去年の7月24日、17年文通や荷物を送り合い仲良くしていた女性が自らの命を絶ちました。もうじき命日が来ます。何もしてあげられる事がありません。思い出す事位しか出来ません。一度しか会った事はありません。とても遠い所に暮らしていた人なのです。

今年は、よく家に遊びに来てくれていた叔母が亡くなり、昨日また叔母が亡くなりました。

今朝起きて何気なく触った足がとても冷たくて、まるで死人の足のようだと思いました。テレビでも芸能人の方が自ら命を絶ったニュースが流れます。足が転びそうだと病院に行くと、次のMRIの検査の前に脳梗塞で死んでしまうのではないかと恐れます。遠くの友達が一周忌に私を誘いに来るかもしれないと思ったりします。それでなくとも、マイナス思考になる事が多いときに、間が差して自分から命を壊すような事になったらどうしよう、と、考えてしまうのです。

昔、私が交通事故をして保険金が下りた時、父が亡くなって、そのお金を葬儀費用に当てられて無事に式が出来た事がありました。そのお金が無かったらどうしていたでしょう。
あぶく銭は取っておかないで使ってしまった方が良いと聞きます。もしも家に少しでも多くお金が入ると、それは私のお葬式の為に使われるのではないかと、父の死との因果関係を当てはめてしまうのです。
まだ死にたくありません。
けれども、「死」というものは、常に身近にあるものなのだと思わずにいられない日々です。

明日は叔母のお通夜になります。
明後日は、叔母は荼毘に付します。





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