チランジアに水をあげる朝に思う事
喜んでいるだろうか。
水が美味しいと言っているだろうか。
喉がカラカラだっただろうか。
私のスプレーがヘタだと感じているだろうか。
呑み込みが遅くて床に水をこぼして申し訳ないと言うのだろうか。
「重力には逆らえない、これはふっくらとは育たない」と眺める皆が思うのだろうと、気をふさいでいはしまいか。
「大丈夫だよ、いまにここに慣れるから」と、私は言う。
「本当に本当か?」
「それはわからない」
「あなたは植物を育てられる人なのか?」
「育てられたり、育てられなかったり。けれども、最後の最後には、時代が変わるような決別をして来たように思う」
人間にはパターンというものがあると思う。
パターンから逃れられる事は出来ないのか。
逃れられないけれども、パターンを変容させたり、進化させる事は出来ると思う。
チランジアを眺めていて、自分の不安と重なった。
この頃の私は、特に疲れが酷くなっている。色々な事を根を詰めてやり過ぎるからだと思う。やっているときは「努力、使命、継続、へこたれない、活発になる」事に身体と頭がコントロールされているし、へこたれてはならないのだと自分に言い聞かせて頑張る。これが私の一つのパターンだ。
そして、もうひとつは、「全ての事と機能が頂点に達している状態になり、休む事が出来ない身体を手にしてしまうという事だ。すると今度は少し頭をならしたり身体を動かしたりすると、消耗が激しくなり、頭がもたげ身体が云とも寸とも言わなくなる日が来るというパターンだ」
現在は、後者が来ている。頑張ってはいる。けれどもなかなか休もうとはしない私がいる。今回は特に、「休んだら終わりだ」という事が頭に浮かぶ。同じパターンじゃないか。
しかし、以前に1カ月休んだとして、今度は1週間ならばどうだろう。パターンが変容した、進化した事によって、自分が進化した事にはならないだろうか。以前の繰り返しはしたくない。そんな事になったら、人生が見えているじゃないか。
昨日は食事を作って食べるのが精いっぱいで、その後机に向かったが、ベッドに倒れこんだ。それでも1時間したらまたむくりと起きだして、次の事にとりかからなければと、ブログを書いたり、洋服のリメイクをしたりした。
この頃は、新しいホームページを作ったからかブログの更新や、ページの手直しに手間取っていた。少し慣れては来たが、ブログを書いているだけでは自分にとって何の手ごたえも無いと思ってしまう。謙虚さが無いなとも思う。毎日ブログが書けたのだから、自分を褒めてやればいい、十分やっている、この体と頭でここまでやらせて貰ってありがたいと、感謝をすればいいじゃないか。
「感謝が全てを解決する」のではないか。特に私のような強欲な人間には、身につまされる言葉だ。昔は「野心」という言葉も私にはあったと思う。今は、その言葉は無い。「奉仕」という言葉ならばある。それにしても的外れで、度が過ぎた奉仕かもしれないが、こんな私を気にしてくれる人があちらこちらにいる事を思うと、涙が出てくる。
私は、壊れてきていると思う。パターンが変わって来ていれば、少し休むような事をしてもいいのだろうか。「パターンが変わらなければ、先が見えている現世の終わり」である。
私はいつもこんな風にもがいて生きているのです。
こんな事を書いて、どなたかのお役に立つならば書いた甲斐はあると思っています。