妹の命日に18年前に法事に集まった今は亡き父母や叔父叔母達の写真が出て来た
それはもう大昔の事になるが、妹が6歳になっていた6月12日の夕方の事だった。「花火をしたいから買いに連れて行って」と私に言いに来たのである。私は奥の座敷に寝転んでテレビの「いじわるばあさん」を見ていたので「いじわるばあさん見ているからだめ」とこの言葉で断ったのである。すると妹は祖母の所に行って花火を買いに行きたいと頼んだのである。
駄菓子屋は通りの向こう側に渡り3軒先にある。祖母は妹を通りの向こう側に渡して、「花火を買い終えたら、またここまで戻っておいで」と言って、そのあたりで片づけ仕事などをしながら妹をほんの少し待っていたのである。
私の家は商売屋だったので日曜日の夕方は大人達は全員お店に出払っていて、家の中に居たのは、私と祖母だけだったという事なのだ。駄菓子屋で一袋花火を買うと、今度は駄菓子屋の親切な奥さんが、妹を駄菓子屋の店の前から通りを渡らせたのである。そのとき辺りは薄暗くなっていたのだが、左方向から猛スピードを出して走ってきた車に奥さんは気づかなかった。妹ははねられて30メートル飛ばされる交通事故に遭ってしまったのである。ものすごい音が辺り中に響き大騒ぎになった。真っ先に飛んで行った父に抱かれて、妹は近所の病院に運ばれた。私は、父が妹を抱いて走るのを家の奥まった倉庫の所から目にした。まるで流れ星のように早い、とその時思った。
そうして妹は丸一日生きて、翌日の6月13日に亡くなってしまったのである。身体に傷ひとつ無いのが嘘のようだと大人達が話していた。私は、生まれて初めて父が泣いたのを見た。
「死んでしまったよ」と大勢の親戚や知人の人達に電話を掛けていた。
「だめだった」「なんだって死んでしまった」「おねがいします」と泣いている。黒電話のコードがぐるぐるにからみついては、ほどき・・して、また父は電話を回す。
先日、酒屋をしている叔母が、こんな事を教えてくれた。叔母は私が8歳の時まで一緒に生活していたので、妹が亡くなった時は本当に身近に家の色々な事を手伝っていたし記憶も確かなものがある。極最近に亡くなった叔母の話から、妹が亡くなった時分の話になった。
「義姉さん(私の母)は、偉かったと思うよ、あの時、私の母(おばあちゃん)を悪く言ったり怒ったりしなかったよ」と。
妹が死んで半世紀経つのに、初めて聞いた話しだった。母は、あの時しばらく食事も喉に通らなくなり、私が食事をすると、妹が食べられないという事を私が食べている事になぞるので、私も喉が詰まって食べられなくなってしまったりした。又は母の前ではおやつなどを食べないように隠れて食べたりしていた。町では母が小学校や公園を毎日うろついていると噂になっていたのである。
叔母は、私の母の事をとても忍耐強い人と言う。
そんな強い人に育てられた私も、痛手は負うが、打たれ強いと思う。
ブログに載せる写真はないかとファイルの中を見ていたら、Wordにまとめられた18年前の、今は亡き父母や、叔父や叔母の写真が出て来たのである。
皆、この時は生きていたのである。私がいつの間にか写真を撮って、白黒に加工してL判の写真でいつでも刷れるように作っているではないか。
検索をかけて撮ったカラー写真を探してみたが、写真そのもののファイルは見つからない。お墓で撮ったもの、家に戻り皆で食事をしている様子。
なんと言葉にしていいかわからないが、瞳に涙が膨らんではぽとり、膨らんではぽとり…。
生きているのである、母の笑い声がこの胸の中に響き渡るのである。父はお酒に酔っていて、「これはもう少しでつぶれてしまうわ」と母が言うのである。
どうしよう、こんなものを見てしまったなんて。だから、やっぱり今日は、妹が私の所にやってくる一年に一度の命日なんだなと思えたのだ。
これは、追記なんですが、私は、花火を買いに行きたい妹の気持ちをなんでわからなかったんだろう、なんで私が花火を買いに連れて行ってあげなかったんだろう、私が連れて行ってあげていればと何十年も悔やんで来たのですが、このブログを書いて「妹は回りまわって最終的に生きられなかった」とまたあらたに気づいたのです。それは運命なんだと言われればそうかもしれません。
けれども、夏になると毎年の事ですが、熱中症の患者さんを病院側の受け入れ態勢が間に合わず救急車で何十件も何時間もたらい回しにされたあげく亡くなってしまうケースが多々あります。コロナで微熱があり悪寒もして咳もでるけれども病院に掛かるまでのプロセスの中にその人はうまく入れて貰えなかった、結果的に命を落としてしまう方がいました。子供の虐待でも何日も食事を与えて貰えない、何日も寒い浴室やベランダに出されていたり、眠らせて貰えなかったり、毎日身体を叩かれていたりと、そんな小さな子が外に向かって何か訴えているのに助けられなかったケースがあったりと、とにかく、私も人の「訴え」というものにちゃんと耳を貸してあげられる人でありたいし、そういう世の中になればいいと思います。苦しい辛いという人の言葉や気持ちを聞く事と、自分が出来なければその事を聞いてくれる誰かに届けること、繋ぐ事を、忘れないようにして生きて行かなければと思います。
こういう事が出来ればその事が解決するという事ではないのです。例えば川に流されて亡くなってしまった女の子がいました。その子は自分の履いていたサンダルが流されてしまったのを拾おうとして、川に流されてしまったのです。親御さんの気持ちは計り知れません。その女の子の気持ちの機微を、どのタイミングで掴むのか、誰が掴むのか、普段から子供の様々な気持ちの機微に触れる度に、事細かに色々な事を教え育てていた事かしれません。親というものはそういうものだろうと思います。肌身離さず子供の命を育てているのです、自分の命を子供にあげる事をためらわないのが親なのです。私も二人の男の子を持つ親であるので、他人事とは思えず本当に残念でなりませんでした。
私はこれから、私が何かが出来るならば、その事をみつけてやって生きて行きたいと思っています。回りまわって還って来たのは、その事なんです。